金ヶ崎の戦い
元亀元年(1570年)4月、大宮司気比徳直等一族は、国主朝倉義景氏のために神兵・社僧を発して、織田信長の北伐を拒み、天筒山城に立ち籠り、大激戦を演じたが、遂に神官寺坊灰塵に帰して、四十八家の祠官・三十六坊の社僧は離散し、古今の社領は没収され、祭祠は廃絶の憂き目に遭った。この時平松美作守の弟中村兵庫(幼名源四郎)が天筒山に入り戦死。
敦賀市高野の山外、西に祭られている。(平成30年8月のお盆に出向いてきた)
その後、気比宮司、平松美作守景吉の妻、朝倉義景息女(母は細川晴元の娘)の叔母の援助を受け、山車を作り豊臣秀吉が来た時に復活を見せた。敦賀の山車はここからが始まりである。当家では言い伝えがある。
慶長19年(1614年)福井藩祖、結城秀康公により社殿を造営され、社家八家を復興し、社領百石が寄進された。
宮司八家
東西北河端氏・石塚氏・石倉氏・平松氏の六家は大中臣魚取朝臣、平松某と言う。平成の現在も2600年神代から続く直系である当家がお守りしている。
角鹿性の島家・菅原性の宮内家の計八家である。島家は角鹿の値である。
著者 平松周家 気比宮「社記」 著者 石塚資元 「敦賀志」著者小松邦子「古文書の街敦賀」